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学校教員の仕事から学んだこととC.schoolのつながり

こんにちは。C.schoolの風間です。

今度「教員経験から学んだことと今へのつながり」というようなテーマでインタビューを受けることになったので、その前にできるだけ言葉にしたいと思って、文章を書いてみました。「教員になることを考えている人」に何か参考になったら良いなと思って書く文章にはなりますが、C. schoolをつくった人は、学校教員を経験した上で、こんな想いで、塾を運営しているんだということを理解してもらえたら嬉しいなぁと思い、C.schoolのブログで公開してみました。

今まで出会ってきたすべてのことがいまの自分に影響を与えていますが、私がC.schoolを運営する上で、なによりも大切にしていることは「教員生活で学んだこと」です。本質的には、「子どもたちから学んだこと」「同僚の先生から学んだこと」だと思います。今までの人生の中で、教員として教壇に立った時間が、最も自分自身を人間的に成長させてくれました。その上で、学校現場ではなく、塾の形で実現したいことがあって、いまの形を取っています。

教員という仕事は間違いなく、とてもやりがいがあり、自身も成長できる素敵な職業ですので、これから教員になることを考えている人の背中を押せたら、それからC.school関係の方々には、C.schoolのあり方の背景を知ってもらえたら、嬉しいなと思います。

一人間としての人間的成長、一社会人としてのスキル的成長、そして、一教育者としての成長に分けて、いまの自分が咀嚼しきれていることを言葉にし、最後は学校と塾の役割の違いを俯瞰した上で、なぜ塾という形をとっているのか文章にしてみたいと思います。

人間的成長

何よりも、教員をやってよかったなと思えることは、人として成長できた期間であったと自分自身が思えていること。こんなにも人として鍛えてもらった時間は今までの人生で他にありません。教員という職業は、毎日毎日、人と関わる仕事。子どもたちの成長に貢献したい、という思いを持って現場にいけばいくほど、自分の未熟さを突きつけられる。常に、人としての自己成長が求められる苦しい期間でもありました。一方で、その環境から得られたものは他のどんな経験にも変え難い貴重な経験です。

だれかのためにがんばることが、自分を豊かにしてくれるということ

「与えること」=「与えられること」であるということを、心の底から経験できたことは、一番の学びです。教員の仕事は、具体的に成果も測りづらいですし、インセンティブも設計されていません。おまけに本当に大変です。土日の部活動や学校行事を含めれば、1ヶ月の休日が数日であることもざらにあります。(最近は学校の働き改革への働きかけも進んでいるようですが。)だからこそ、何のためにがんばっているのか、どんな価値をだれに何のために届けたいのか、自分自身で納得解を持つことが求められます。そうじゃないと息切れしてしまう。良くも悪くも本当に志が求められる仕事だと思います。

正直、教員1年目は、人生の中でも一番辛い日々でした。色んなことがうまく行かない上に、未経験のサッカー部に配属されてサッカーの審判をして(たまにミスジャッジで相手の監督に怒られて笑)、休みの日も授業準備を続け、学校に行けばうまく行かず、なんて日々が続きました。学校にいきたくない日が数ヶ月続いたときもあります。でも諦めるわけにはいかない。特に、授業は「専門の先生」として教壇に立つので、とにかく全力で授業準備をしました。放課後の部活では、子どもたちと一緒にサッカーの練習をして。授業について来れない子たちのために放課後に補習をして。そして、補習をして、保護者の人に怒られて。反抗する生徒もいるので、毅然とした態度で対応し続けて。自分の「正義」がわからなくなりかけたことも幾度となくありました。

ただ、この状況を救ってくれたのも、「子どもたち」であり、「同僚の先生」でした。心から想いを持って取り組んだことって、その場では伝わっていなかったとしても、全員に届かなかったとしても、誰かに届いているんですよね。

手作り単語集の表紙は生徒が描いてくれました。

子どもたちが、すごく楽しそうな笑顔を見せてくれたり、時々嬉しい言葉をかけてくれたり、授業や関わりに意味を感じてくれたり、一緒に授業を考えてくれたり、仕事を手伝ってくれたり。同僚の先生が、すごく応援してくれたり、励ましてくれたり、手間のかかる仕事を増やしても「思いがあるんだから応援する」と手伝ってくれたり。こんな人たちに囲まれている状態というのは本当に恵まれていたし、幸せな瞬間だったなぁと思います。

みてきた子どもたちの卒業式、離任式では、本当に人生最高の瞬間を与えてもらいました。よく教員の間では、1%の最高の幸せのために99%の苦労を乗り越えるなんて話をしますが、99%の苦労にどれだけ相手への思いを込めて取り組めたか、その密度で、1%の幸せの密度が変わる。心から実感できた経験でした。

涙涙の離任式

教員の後、民間企業に勤めていましたが、どんな仕事でも本質は同じこと。「だれかのためにがんばること」は、回り回って最終的に自分をも豊かにしてくれる。その現れ方は違っても、きっとその先に、なにか豊かさがある。この実感を強い体験として得られたことは、仕事に関わらない、自分の人生における行動の大きな指針になっています。

10年後、C.schoolに通っていた子どもたちが「あのときの経験が役立った」と言ってくれているような状態になったら幸せだなぁ、がんばってよかったなぁと思えるので、そんな未来を想像しながら、日々取り組んでいます。

個人の成長の前提に、心の状態があること

生徒が落ち着いて生活しているクラス、毎日ニコニコ前向きに生活しているクラス、一方でなんとなくどんよりしているクラス、学級が荒れているクラス。この違いはどこで生じるのか。もちろん、生徒の学校外での状況や集団の特性によって、先生だけの責任でコントロールできるものではありませんが、生徒が成長するクラスの必要条件として、「先生が心を大切にしていること」だと確信しています。

論理的ではなく、直感的な話になりますが、「子どもたちの心のあり方」を大切にしている先生、当然のことながら、先生自身が「自分自身の心のあり方」を大切にしている先生のクラスは、生徒が落ち着いて過ごしています。そして、この状態にあってはじめて、集団活動にも、個人の学習にも、落ち着いて臨むことができて、成長することができる。

私は教員時代、二人の尊敬する先生に出会いました。一人は、同学年で学年主任をされていた北崎先生という先生、もう一人は、担任・副担任、サッカー部の顧問・副顧問として一緒に担当させてもらった石橋先生です。この二人の先生は、とても心を大切にしていました。心を大切にする、ということが具体的には、どんな行動になっていくのかというと、身の回りの整頓やものを大切にしたり、相手のことを思った行動をするように働きかけること。また、自らがその行動をすること。この先生たちのクラスは、常に机や荷物の整理整頓、掃除の徹底、黒板を常にきれいに保つこと、一人ひとりの行動や日記に心を込めてコメントをすること、本当に細部にまで心が行き届いている。感謝や思いやりの気持ちの心があるんですよね。そう言った行動を続けていると、生徒(あるいは先生自身も)行動が落ち着き、心が素直になり、成長のために様々なことを吸収する土台ができる。

「勉強しなさい」「成長しなさい」という前に、「勉強するための環境」「成長するための環境」を用意し、子どもたちの心を落ち着け成長できるように働きかけていく。教育に関わる大人に求められることなのだろうと二人の姿勢から学びました。

いまも毎日15~20分程度の時間(学校の掃除くらいの時間)をかけて教室の掃除をしたり、散らかっているものは整えたりして、子どもたちを迎えています。子どもの成長に貢献する大人として心を込めて自分たちでやる。その行動を通じて、子どもたちが豊かに成長できる環境をつくる。そしてまた自分たちの心を育む。掃除を大切にしているクラスの先生、そして子どもたちの成長から学んだ大切なことです。

人とともに生きる前提として、信頼関係が不可欠なこと

正直、教員になる前は、大きな勘違いがありました。教員になって1ヶ月で、打ち砕かれることになります。それは、自分の能力を鍛えれば、授業はある程度うまくいき、子どもたちもついてきてくれるような、そんな幻想です。その背景に、個別指導塾で大学生のときにバイトをしていたときの成功体験がありました。ただ、それは1対2とかでしたから、自然とコミュニケーションの密度が高まり、信頼関係が醸成されていたのだといまだから思います。一方で、学校の教員として、私は学年で約100人の生徒、他学年の授業にもヘルプをしていたので、約200人の生徒と授業を通じて関わることになりました。

日々、「人対人」の関わりを続ける学校生活。先生の「能力」なんて、正直どうでもよい瞬間の方が多い。それよりも、その人が信頼できるかどうか。その人についていきたいと思うか。それがあって、はじめて、その先生の能力に意味が出る。言葉に説得力を増したり、方法論を提供したときに信じてもらえたりと意味が出る。能力を鍛えることは、教育に関わる人として不可欠なのだけれども、それだけではダメだということ。能力も信頼される手段にはなるけれど、それだけでは機能しない。

大前提として、人としての信頼関係が必要です。どんなに「おもしろい授業」や「わかりやすい授業」”だけ”を届けても、信頼関係は築けない。先生として、信頼されるためには、そのような授業を一生懸命することは必要条件ではあるけれど、十分条件ではないんですよね。前提として、もっともっと地道に、人として信頼される人間である努力を続けること。

教員になって、半年後には、尊敬する先生方との圧倒的な差を感じていました。どんなに頑張って授業を準備して、おもしろい仕掛けやわかりやすい仕組みをつくっても、本質的に自分を信じてくれている実感がない時期が続きました。とても辛い時期でした。

それから見様見真似で、本当に意味があるかはわからなかったけど、素晴らしい先生方の取り組みを続けました。自学ノート80人分にコメントを続けること、提出プリントに必ずコメントすること、毎日全員と一会話を必ずするようにすること、掃除の時間は生徒と一緒に膝をついて雑巾掛けをすること、生徒に言ったことはまずは自分が率先してやること、生徒たちが困っていることを真剣に聞いてあげること。そんな小さな小さな積み重ねで、徐々に変化が出てきました。生徒が授業の準備片付けを手伝ってくれるようになったり、困っているときにサポートしてくれたり。居残り補習を提案したら、自分からやりたいと言ってくる子が出てきたり。卒業式の日に、彼らが「一年生の最初の頃は、先生めっちゃ滑ってましたよね(笑)」と言ってきたのは、そんな日々を象徴する暗黒の思い出であり(笑)、でもそれに続いて「先生の授業はおもしろかったです。色んなことを教えてくれてありがとうございました。」そんなことを言ってくれたことは、信頼関係を築くことができて何かを届けられたかもしれないと感じられる経験になりました。

よく考えれば、大人の世界でも同じことですよね。経歴がピカピカで能力が高い上司、というだけでついていきたいとは思わない。普段の関わりや振る舞いがあってこそ。そんな当たり前のことに気づかせてくれました。

C.schoolでは、学校よりも生徒と共有する時間は少ないですが、毎回の授業での子どもたちとの会話の量や質を自分なりに記録し、振り返りノートにコメントを書き、勉強や進路以外のことでも困っていることがあれば相談に乗り、オンライン授業やDプロなどを通じて信頼に足る学習コンテンツを届けていくべく、そんな積み重ねを大切にして日々取り組んでいます。

人はそもそも多様であるということ

1対多の関わりを通じて、多数の個と向き合う中で、一人ひとりの違いを強く感じる経験でもありました。授業を通じて、同じ学習や同じ話をしても、感想を見ると、捉えているポイントが人それぞれ全然違ったり、学習の進度も当然のことながら違います。得意なことも不得意なことも、話したいことも話したくないことも。能力も感情も違います。

これは自分が学校教育や社会のレールに乗っているときには、自分と他者との比較しかできていなかったので、「多様である」ということを当たり前だろうと思いつつ、多様な子どもたちと関わり、俯瞰できたことで、より深い意味で理解できるようになった気がしています。

特に、中学生は発達心理的にもアイデンティティを確立するべく、様々な模索をしている時期。多くの子が「自分」にベクトルが向いている時期でもあります。色んな自分に葛藤を持ちながら、表現をします。毎日、放課後残って、自分が感じていることを話してくれる子もいれば、自学ノートにコメントをしてくれる子もいました。自己の成長や自我の確立、あるいは、他者との人間関係についての悩みなど、その根っこは共通していたとしても、一人ひとりの性格やバックグラウンドが違うので、ストーリーは全く違うものになります。

例えば、体育会や合唱コンクールなどの学校行事。学校はどうしても、先生のリソースに対して、生徒の数が多いですから、全体最適解としての環境を提供します。その中で、その仕組みにフィットする子もいれば、そうでない子もいる。集団行動が得意な子もいれば、個で行動した方が輝く子もいる。学校は社会性を学ぶ場としての機能として、素晴らしい場だと思っているので、そのような環境下でたくさんのことを学んで欲しい。一方で、中学校という環境は、社会全体を見渡すと、特殊な環境でもあり、それが社会のすべて、居場所のすべてではありません。学校で、様々な葛藤を抱えながらたくさんのことを学びつつ、多様な才能や多様な個性が自分らしく生きられる手段はたくさんあります。勉強でも同じで、同じ問題でつまずいていても、つまずきの背景は一人ひとりで違います。学校のあり方や社会のあり方を背景として理解し、伝えながら、個々にとって最適なサポートをしたいとより強く思うようになりました。

C.schoolは、一人ひとりと面談する時間を確保していますが、その背景には「多様であること」を前提として、それぞれの「個性を知ること」に努めたいという思いがあります。それは、勉強の仕方かもしれないし、生き方や考え方かもしれません。特に、私たちは塾なので、「多様であること」を前提に、個が輝く進路選択のサポートや学習支援をしていきたいと思っています。多様な選択肢のある社会の中で、自分が納得いく、自分が輝く選択のできる大人になって欲しい、自分自身が納得のいく成長を実現できる大人になってほしい、という思いで関わりを続けていきたいと思っています。

スキル的成長

これから先生になろうと思っている人向けに、能力開発の視点で書いてみたいと思います。

圧倒的な当事者意識とPDCA

赴任して1日目から「先生」になるこの仕事は、圧倒的に裁量の大きい仕事だと思います。良くも悪くも、1年目から遠慮なく、裁量と責任が与えられる仕事。(もちろん、周囲の先生がたくさん支えてくれますが。)

教育は中々成果が測れない仕事であると言われる一方で、短期的には、自分がした仕事の成果が一瞬で評価されます。自分が準備してきた授業に対する生徒の理解度や表情、行動など。これは他者から評価されるものというよりも、自身が一番わかることで、生徒の反応が評価になります。わかりにくい授業やおもしろくない授業は、本当に一瞬で生徒の目が死んでいきます… これは経験した人にしかわからないと思うんですが、本当に辛いです。生徒も辛いでしょうけど。一方で、信頼関係が築けたり、授業がうまく回り始めると、本当に楽しい。生徒も勉強が楽しくなると思います。教科書は与えられるけれど、それをどう料理するかは本当に自分次第。私は、まずは自分で一通り手を動かしたいと思っていたので、すべての授業を自前でプリントとスライドを作って実施していました。

また、人は出会う人、普段関わる人に影響を受けるので、授業中の生徒の様子は、自分の鏡のようなもの。その授業の中で見える課題や生徒に見える課題は、自分自身の課題であったりします。例えば、わからないと言っている生徒が多数入れば、それは授業がわかりにくいということ。生徒がなんかイライラしていたら、自分に余裕がなくてそういう空気を作ってしまっているということ。本当にすべては自分次第。自分が工夫したり、自分の行動を変えていく必要があります。

また、テストを作るのも評価をするのも自分になります。すべてのデータも自分が持ち合わせているので、目的に合わせて本当に必要なデータ分析など、自由に行うことができます。社会人1〜2年目なんかは、ひたすら上司から降りてきた作業としてエクセルをこねくりまわしていましたが、教員時代は自分で目的を設定して必要な作業を自分で決めて取り組めました。その結果が、授業や生徒の成績に反映するところまで、一気通貫して担当できることは本当にやりがいがありました。(これは塾でも同じですが)

毎日毎日、評価されているような気持ちで大変でしたが、こんなにも短期的に自分自身の裁量で、大きな権限を持ち、PDCAを回せる仕事ってとても稀だと思います。自分はこのような経験を通じて、課題特定する力を鍛えることができたと感じています。表面的なところで言えば、エクセルの関数やパワポの資料作りなどの能力は圧倒的に高まりました。逆説的ですが、学校現場はIT化が遅れているので、自分で手を動かす余地がたくさんありました。この経験があったからこそ、いまもC.schoolで、一瞬で小テストを作ったり、学習データを分析して学習指導に生かすことができています。

集団をマネジメントする力

まだまだ未熟な自分であることを認識しながらも、常に人の前に立ち続けることが先生の仕事。クラスをあるべき状態に導くために、リーダーシップを発揮しなければなりません。その形は、先頭に立って引っ張るタイプ、縁の下の力持ちタイプ、様々だと思いますが、教師には集団が安心して生活できる環境と成長できる環境をつくる責任があります。個々と向き合いながら、集団をある方向へと導いていく。生徒のある行動に対して、自分はどう反応するべきなのか、正解のない問や自分の正義感が問われる瞬間の連続です。この連続の中で、自分なりの軸や判断力が養われていきます。上述した個々との信頼関係を築く重要性に加え、集団の前に立ったときの自分なりのスタイルを確立していくことの大切さをしりました。

こうした経験を20代半でできたことは自分にとっては大きな財産になりました。学校とはまた違った形ですが、C.schoolもまた一つのコミュニティなので、より良い方向に進む集団づくりに努めていきます。

教育する力

ここまで書いてきたこととも重なりますが、より教育の提供者としての視点から学んだことについて書いてみたいと思います。

一人ひとりにあった学習環境

上述した通り、「人は多様であること」を心の底から感じているからこそ、学習の進捗やモチベーションも多様である前提に立っています。そのため、C.schoolでは、大枠のカリキュラムはあれど、最後は個別で話をしながら学習をサポートするようにしています。

その前提があったので、教員時代から個別最適化して学習を進められるIT教材を使うようにしていました。そのときに効果を感じたため、いまC.schoolでもより良いIT教材を常に模索しながら活用しています。
(このときには、関屋が前職時代に扱っていたサービスを導入してもらい、関屋がインタビューにきてくれました。笑 もしよければ当時の記事をご覧ください。)

IT教材の良いところは、人間がやる必要のない”作業”を効率化し、生徒とのコミュニケーションや本当の学習のつまずきの解消といった、AIにはできない、人間だからこそできることに、講師が集中できること。この環境作りに注力できているのは、学校の教室で実際に子どもたちと向き合い、彼らとともに様々な取り組みをしてきて、子どもたちの表情を見てきたからこそできていることだなと感じています。

ルールや規律

自分が中学時代に感じていた、生徒を縛るがんじがらめのルールや規律。そこには様々な背景がありました。正直、学校には、形骸化してしまっているものや時代にそぐわないものが残っているとも感じましたが、本質的には、ルールや規律は、生徒が成長するために、安心安全の環境をつくるべく存在しています。一方で、常にルールや規律が目的と一致しているかを見直しながら定めていく重要性を感じました。

例えば、授業の中でも、最初に授業のルールや評価指標を明確にして、そのルールを前提として主体的に活動できる環境を作りました。これは、法律というルールと、警察官という規律を守る人がいるから、安心安全に生活を送ることができて、自由に活動をできているのと同じだと思います。一方で、目的なきルールは、むやみやたらに人を縛り、思考停止状態へと追いやります。

常に目的を意識して、ルールを作り、規律を守っていくことの重要性を学べたことも大きな経験です。C.schoolでは、静かな学習環境を大事にしているので、それに対してはきちんとルールを定めていますし、(ほとんどないですが)その環境を乱す行動をしてしまう子がいれば注意とルールの再確認を行っています。

全体像を伝える

大人は子どもたちよりも、長く生きている分、多くのことを見聞きしてきているので、「子どもたちが知らないことを知らない」ということに気づきにくい、という事実に気づかされました。子どもが大人が予想することと反した行動をしたときに、「◯◯しなさい」と言いたくなってしまうのですが、ときにこれは子どもたちを一方的に否定し、自尊心を傷つける行動となってしまうことがあります。

例えば、細かいことで言えば、勉強の仕方。大人の我々から見ると、明らかに非効率なやり方をしていたり、おかしなやり方をしていたときに、それを真っ向から否定してしまったときには、完全に子どもたちのやる気はへし折られます。もしくは、言われたことしかできない受動的な態度になっていってしまいます。

なので、何かより良い方法を伝えたり、行動を促すときには、まずはその全体像や背景を伝えます。その上で、「◯◯した方が良いと思うけど、どう思う?」と問いかけるようにします。全体像を知れば、大抵の場合、子どもたちもそれに納得してくれます。納得して行動した上で、自分なりにより良い方法を模索していくことで主体的な学習者へと成長していきます。

これは大人でも同じですよね。いきなり「この仕事しなさい」と言われるだけじゃ、やる気になれない。でも、その仕事の背景や全体像を説明してくれたら、自分がやる意味ややるべき理由を納得して、主体的に取り組むことができる。

より良い方向に導くために、全体像や背景を伝えることを意識することはとても重要だと感じています。

塾だからこそできること

大前提として、私が常々思っていることは、学校と塾は敵ではなく、目的を共有した仲間であるということです。教員時代、塾の先生vs学校の先生の雰囲気が少なからずありました。私は、子どもたちの取り巻く環境全体を俯瞰したときに、学校と塾は子どもたちの成長を支援する大目的を共有した存在であり、単に役割が違うだけの存在だと思っています。それから、当然のことながら、学校も塾もご家庭の力には及ばないので、ご家庭と連携することは欠かせません。

同僚の先生が送ってくれた胡蝶蘭。尊敬する先輩方であり、改めて、同じ志を持った仲間だと感じました。

塾は、学校と違って公共サービスではないため、通える子・通えない子がいるのも事実なのですが、同時に、学校だけですべて完結することが必ずしも健全とは限らないと感じているため、必要な人に届く存在にできたら良いなと思います。(実際に行政の事業として、受験生に対して、東京都が塾代を補助する仕組みもあります。)

学校と塾では、一人ひとりに対して、見えている幅と解像度がかなり違います。学校の教員時代は、一人ひとりの活動を広く浅く見渡すことができた一方、たくさんの生徒を相手にします。学校は集団活動が多くを占めるので、集団の中での個との関わりまで見ることができました。

年始のだるまの目付

一方で、塾では、学習や進路選択などに対してより深く関わっていくことができます。例えば、学習一つとっても、C.schoolでは、学年別で担当を分け、一人の講師が全教科横断的に見ているため、その子の学習課題が、教科個別の問題なのか、それともそもそも学習に対する姿勢ややり方の問題なのか、問題文の読み方なのか、より広い視野で課題を特定できます。C.schoolで言えば、ディスカバリープログラムなど既存の仕組みに囚われない取り組みができることや、第三の居場所としてのコミュニティづくりも、塾の特徴だと思います。

また、教員経験を通じて、改めて、「定期テスト」や「受験」のプロセスは、子どもたちにとって最も自分ごととして捉える成長のきっかけであり、教科学習は「主体的に学ぶ力」「自己管理力」「論理的思考力」などを身につけるとても優れた手段であると感じました。どんな子でも勉強をできるようになりたいと思っていますし、勉強ができるようになる成功体験は、自信へと変わっていきます。何か特別なことをしなくても、真剣に志望校を選び、真剣に学習計画を立て、真剣に努力をし、真剣に振り返る、この学習プロセスを丁寧に正しく歩むことで、学力向上を実現し、将来への大きな糧になると信じています。(だからこそ、ディスカバリープログラムのような取り組みはあくまでおまけであり、何よりも大事なことは進路選択×学習のプロセスだと考えています。)

学校教員の経験を生かし、子どもたちの学校生活がより輝くものになるよう学習を通じてサポートすると同時に、学校では補きれていない部分(そもそも学校が子どもたちの教育全部を担当するのは無理があるので)としての役割を果たし、よりよい子ども時代を送れる仕組みや関わりを届けていきたいと思っています。

ただ、「主体的に選択する力」を、「自分の頭で考える力」を、そして、「誰かに本気で応援してもらい、やり切った原体験」を届けたい、そんな想いは教員時代だろうが、C.schoolだろうが、変わりません。学校教員時代に、子どもたちや同僚の先生たちが与えてくれた学びを忘れずに、さらにC.schoolを通じてアップデートしていき、また、学校の先生たちへの敬意を忘れずに、子どもたちを取り巻く環境の全体感を持ちながら、ベストな学びの環境を提供することに努めていきたいと思います。